3)地域開発からみた砂地農業
青森県屏風山砂丘の開拓と営農
青森県畑作園芸試験場 中島 一成
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- 日本の砂地帯の概略
四方が海に囲まれている日本では、白砂青松は日本の海岸風景の原形でもある。たいてい大きな河川の河口を起点として、砂丘あるいは砂地帯が形成されている。砂地帯の成り立ちや面積規模、堆積の厚さ、砂の粒子などは河川水の流量・流速や地形等の立地のほか吹きつける潮風によってさまざま異なり各地の特長が生れる。
海辺ではごくふつうに見られる砂地であるが、農業にとってはきわめて厳しい自然条件にあることは知られているとおりである。しかしながら、これらの地域に暮す人々はそれぞれの知恵と工夫で農地を開発し、あるいはまた荒廃を防ぎ保全に努め繁栄を続けてきたのである。
さて、全国にどれくらいの砂地があるのだろうか。いささか古いデータではあるが昭和28年3月に「海岸砂地々帯農業臨時措置法」が制定され32都道府県に対して該当地区が「海岸砂地々帯」に指定された。そのとき農林大臣官房総合開発課から海岸砂地資料第8号−海岸砂地地帯資料要覧−が刊行されている。
それによると当時において海岸砂地に指定された面積はおよそ240,000町歩となっている。この法律は潮風または飛砂による災害の防止のための造林、農業基盤の整備をすみやかに且つ総合的に実施することによって当該地帯の保全と農業生産力の向上をはかり、農業経営の安定と農民生活の改善を期することを目的としている。国土改造の二十数年前のことであるが、戦後の復興をめざして、これまでは未利地の多い砂地帯の開発を奨めたものである。この法律にしたがって各地域においては砂地帯の開発と保全に努めたことはいうまでもない。
当時と現在では当然のことながら砂地の面積や利用状況は変わっている。とくに都市近郊では工場や宅地などに造成されたり、あるいは砂を採掘し山土を埋め戻して建設用地や農地に利用するなどの例も見られる。また、砂山は建築資材やコンクリート加工業界からみると「宝の山」となり、農地としての利用よりも数倍の価値に評価されたりもして、農業振興や国土の保全とは異なった方向に修正されたところもあるが。それも地域開発のうちである。
- 青森県砂丘の農地開発
かつての青森県では一部の地域を除いて砂地の農地利用はそれほど注目されていなかった。その理由はいろいろあるが、藩制時代以来つい近年までは農業の主幹は米作であり、農地の開拓はもっぱら田地の拡張に注がれていたことが、最大の要因であろうと考える。その後においても、地味豊かで穏やかな内陸部や山手では、りんごを始めとする果樹の生産が奨励されたりしてきた。けれども、70,000ha余りの砂地帯かかえる青森県にとって、田・畑どちらでも農地としての開発利用が急務の課題となっていた。県内の砂地分布は太平洋岸地域の六ヶ所村、東通村を中心に下北半島で約55,000ha、日本海側の車力村、木造町のある通称屏風山地域を含む沿岸で約15,000haとなっている。このうち、古くから農地として利用されているのは10,000ha程度とみられ、多くは林地と地力の低い荒野である。本州北端に位置し、寒冷地の青森県ではもとより農業にとってはきびしい気象立地にあり、作物の導入に当たってもその選択の幅はせまく限られている。
このような地域では、さらに条件の厳しい海岸地帯を農地開発しても安定した営農を望むことは、とうてい無理なものとされていた。
しかしながら、ヤマセが常習的に襲いしばしば冷害に悩む太平洋側に比べ、いささか気候が温暖な日本海側の屏風山地域の農民たちは、少々違っていた。
防風対策と必要な水の手配さえであればこの砂丘を豊かな農地に育てることができると確信をしていて、屏風山砂丘を農地開拓することは長年の念願でもあった。この屏風山で野菜をつくり、これまでの米単作農業から脱却して畑作物や野菜を組み合わせ、安定的な複合農業を確立して、地域振興の中核とする計画である。
- 屏風山と屏風山砂丘の開拓
地元では「屏風山(びょうぶさん)」と呼ばれており、近年ではスイカ、メロンの産地としていささか知られるようになったが、昭和30年代までは県内でも地域民のほかは特別な関係者以外はどこにあるかも定かでなかったところである。
さて、屏風山は津軽藩が今から300年ほど前に造林した「保安林」のことである。それは藩財政の要である岩木川流域の水田を、岩木山の颪と日本海からの潮風と飛砂を防ぐために丘陵地帯に植林したことから始まる。そのさまが、あたかも「びょうぶ」をめぐらしたようだとして屏風山と称されている。
さて、屏風山砂丘はこの屏風山の一角で日本海沿岸の東西25km、南北4kmに及ぶおよそ100km2の縦走砂丘である。
地形は砂が露出しているところは少なく植林されている丘陵地帯と、丘陵に挟まれた潅木と草地が占める平坦地や湿地帯で構成されている。標高はおおむね30m前後であるが最高点は78.6mといわれている。かっては、ほとんどの地域が公有地の保安林として管理されていたが、昭和33年に一部払い下げられ、そのご保安林解除地の伐採や部落有採草地の個人分割などがおこなわれた。現在は地域の20%にあたる海岸よりの第1線防風林と呼ばれる200〜300mが官有地として砂防林の育成が続けられている。ちなみに、防風林は西側の海岸からはじまり集落のある東側を第3線としていて積極的な造林が行なわれている。
屏風山開発の動きを追ってみると次のようである
昭和31年 |
屏風山保安林整備計画 |
昭和34年 |
国有地が部分開放される、青森県では農地開発調査、検討 |
昭和42〜44年 |
国の直轄調査の結果により開田計画が決まる |
昭和45年 |
米の生産調整対策で開田抑制により、開田計画中止となる
地元の要望により開畑に計画変更 |
昭和46年度 |
全体実施設計 |
昭和47年度
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国営屏風山開拓建設事業として工事着工 |
7月
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東北農政局屏風山開拓建設事業所開設 |
4月
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農業試験場砂丘分場設立 (木造町筒木坂字鳥谷沢) |
8月
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第19回砂丘大会開催(青森県屏風山地域を対象にして) |
昭和48年 |
4月 |
屏風山土地改良区設立 (組合員1,105名、受益面積817ha) |
平成2年 |
9月 |
国営屏風山開拓建設事業完工式 |
平成3年 |
3月 |
19年の歳月と196億円を投じた開拓事業が完了した費用の負担は 国75%、県17.5%、受益者7.5% |
- 事業経過の概要
1)水田計画から畑地へ開拓の変更
屏風山開拓の計画は当時の農業事情から、水田計画として調査が行なわれた。昭和44年度には基本計画をまとめたが、米の生産過剰による生産調整は開田抑制政策となり開田計画が中止された。けれども、昭和45年度にいたり地元関係者の強い要請の結果、急遽畑地としての開拓が認められた。
水田から畑地造成の設計変更は昭和46年度に実施し、翌47年には事業所の開設となり事業が始まった。
2)事業計画の概要
本事業は、屏風山地域に817haの畑地を造成し、畑地かんがいなどの施設整備を行ない、経営規模の拡大を図るとともに、生産性の高い農業経営を育成して地域農業の振興を図るものである。
3)営農計画の概要
(1)営農形態
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個人経営によるが一部共同作業とする |
(2)営農組織
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野菜利用共同組合を設立、利用は団地ごとに行なう |
(3)作付体系
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導入作物は地域の主要作物とする。概ね4年ごとに
輪作する |
(4)その他
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かん水はスプリンクラー(定置配管方式)。
防除はスプレーヤ |
- 作目の選定と営農
開拓にともない地域の営農を安定させるための計画が策定された。立案に当たっては、当然のことながら国・官の方針も強力に色付けされたが、地元民と関係指導機関の慎重な討議の結果により合意決定された。
特に野菜の営農では、需給・価格の動向と病害虫の発生状況をみて作付けをするので、当初の開拓時の設計作目とは異なっている。屏風山地域において、作目が年次によって変動がしているのは、高価格品目に人気が集まっているためである。しかしながら、産地として銘柄評価が高まってきており、市場との信頼ある取引も重要であるので、今後は目先だけでなく銘柄品目の定着にも配慮すべきである。それには、連作障害を回避するための輪作作物の導入が前提となるが、無駄な設備投資を避け、しかも収益の安定する作目の検索が課題である。とはいうものの、遠隔の地であるので、貯蔵性のまさる根菜類からの模索、選択となろう。
- 地域の振興
日本農業は現在でも米を根幹としているのに変りはないが、米がかってのように農業を支配するような時代でもなくなった。
これまでは、砂地を抱える農業地帯はどちらかというと評価は低かったが、屏風山砂丘は開拓に成功し、地域の振興にも役立っている事例である。
これは、心暖まる支援と地元農家のたゆまぬ努力の結果である。列記すると。
1)農地造成工事での配慮
屏風山砂丘を見事な畑地に造成した裏には、工事関係者が終始農民の立場になっての設計、施工があったことは特筆すべきことである。そのことは、手続きが困難な工事計画の変更を2度も認めてくれたことでも分かる。主なものは次のとおり。
@客土による土壌改良
A防風対策のための防風網の設置
などはこれまでの、海岸砂丘とは異なる粗砂と強風の地であるために、設計にはない仕様を特別に配慮し、予算化して加えてくれた。この結果、地元の営農意欲が一層高まったことは確かである。
2)砂丘学会による先進技術の支援
湿田での米作りには慣れているものの、砂地農業の技術がない当地域農業の振興に対して、日本砂丘学会では惜しみない援助を与えてくれた。
@ |
工事に着工した昭和47年には「第19回全国大会」の開催を始めとして |
A |
工事半ばの昭和57年には「第29回全国大会」で砂丘農業の指導 |
B |
事業の完了間近の平成元年には「第36回全国大会」などを開催し、
全国から多数の研究者が集まり貴重な助言があった。 |
3)地元生産者の対応
屏風山開拓建設事業は行政的には、木造町と車力村の2町村わたっており、統括する組織が必要であった。そのため、工事の進捗にあわせて組織づくりをした。
@昭和48年 |
屏風山土地改良区の設立 |
A昭和54年 |
屏風山野菜振興会の設立(畑作振興、野菜の集出荷など) |
B昭和59年 |
屏風山砂丘農業研究会の発足
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4)関係機関の支援体制
青森県では地元の要望、要求をきめ細かに処理するため強力な支援を整えた。
@青森県農業試験場砂丘分場の設立
A農林部屏風山プロジェクトチームの発足
B屏風山地域営農対策連絡協議会の発足
- 砂地農業の地域への効果
屏風山砂丘畑も営農が始まって10年を経過した。無から始まった砂地開発は地域振興の大黒柱として大きく成長した。平成5年の大冷害のとき地域民から「砂丘畑の野菜で助かりました」の一言がすべてを物語る。砂丘畑は車力村の国際交流にも活躍しており、モンゴル国農業研修生の実習場でもある。なお青森県は、砂丘地農業を育てた「屏風山野菜振興会」を平成10年度の朝日農業賞に推薦している。
平成10年7月22日開催「日本学術会議第17期第1回地域農学研究連絡委員会講演会」テキストより転載
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