導入作物の変遷とその背景
日本砂丘学会長 鳥取大学名誉教授 竹内 芳親
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- はじめに
不毛地の代表は砂丘地である。この言葉は世界中のどこでも通用する。しかし、「砂丘地は沃野である」と題し、砂丘地農業の見聞記をジャーナリストの増田れい子氏は「国公労調査時報」No.353(1992)に書いている。
「砂丘地は沃野」この表現は、文学的に過ぎるかもしれないが、農業の専門家でない記者の心に正直に写ったと私は思える。
農業は自然が相手である。自然は人間の生活にやさしい心を持つときもあれば、無慈悲極まりない時もある。だから、農業は風土産業なのだ。
日本の砂地農業の歴史はまだ新しい、ごく最近まで不毛地の代表が砂丘地であった。その、不毛地が沃野に変身した、おおいに興味ある所だ。
導入作物の変遷が私に与えられた課題である。最初に、砂地農業発展の経緯についてふれ次いで本題に入る。
- 我が国の砂地農業の発展経緯
砂地農業の発展経緯を考える時、日本砂丘研究会の果たした役割は計り知れない。
そこで、日本砂丘学会の設立の経緯と経過を紹介する。(正確さを記するため、公表された資料を引用させていただいた)
1) 砂丘研究会の設立と日本砂丘学会への移行
(1)日本砂丘研究会は1954年8月21日に鳥取で設立された。そして、同年の12月に「砂丘研究」第1巻 第1号(日本砂丘研究会の会誌)が刊行され、初代会長の原勝先生は"発刊の辞"をつぎのように記された。
「砂丘にご関係のある皆様の絶大な御賛同を得まして茲に日本砂丘研究会の設立を見ましたことは誠に御同慶に堪えない次第でございます。申すまでもなく本会は砂丘の研究者或いは実際に当たられる方々の研究相互の強化研究成果の実際えの応用等を推進されるのを目的と致しておりまして・・・以下略」
(2)砂丘研究、第30巻第1号(設立30年記念特集号)の論説で遠山正瑛先生(鳥取大学名誉教授)は「砂丘開発の発足」を次のように論説している。
「鳥取大学砂丘研究グループが本格的に砂丘研究を進めたのは昭和21年(1946年)である。・・中略・・ 終戦直後浜坂砂丘に研究場を造成し、生産研究に着手した。筆者の暴挙とも思われる不毛砂丘地の開発に、青年教官の人々が集まり協力されたことが、今日、日本の砂丘開発の原動力となった・・・以下略」
(3)日本砂丘学会誌、第40巻第2号で長智男先生(九州大学)は「創設期の思い出」を記している。
「昭和24年(1949年)に新制大学が出来て、鳥取農専も鳥取大学農学部となった。当時、林学科には原勝先生がおられ、以前から湖山の砂丘に試験地をつくり、長年にわたる砂丘造林の研究に実績があった。安定した砂防林があってこそ、その内部の砂丘地は農業生産地として利用できるのであるから、砂丘利用研究の先駆者であった。佐々木先生(当時の鳥取大学学長)の提唱で、グループをつくって砂丘地の農業利用に関する研究を始めようということになり、若輩の私も進んでこれに参加した。−(中略)−砂丘に関する研究の中心を鳥取に置こうとする気持ちは研究グループの中で次第に育っていった。原先生、遠山先生らと相談して、砂丘に関する学会を設立しようと言うことになった。特に佐々木先生から全日本的な組織を作れと言われていたからである。・・以下略」
(4)日本砂丘学会誌、第40巻第2号で「日本砂丘学会に寄せて」と題した福田仁志先生(東京大学名誉教授・日本砂丘学会名誉会員)の文面の一部を引用する。
「学苑に接して砂丘がある。というよりは、元来、学苑が砂丘の中に育ったと言える生態環境である。鳥取大学の学苑に、日本砂丘研究会が生まれたのは当然の成り行きであろう。昭和29年以来のことである。
同好の士が砂丘に関心を深めつつ、当初、原勝博士を中心に、その良き指導の下、成果の蓄積は当然ながら豊かになった。・・中略・・
ここに砂丘を中心とする学会の誕生に当たり、砂丘と沙漠の問題を明らかにして欲しいと思う。通常、周知のように、砂丘は沙漠の表面上に在って、風食を受けて移動する部分と理解すると、砂丘は形容、その深さなど、静的、動的の地域性を備えている。
地域性を見るとき、取り上げる比較要因に、天、地、人の3つを考える。天の中に降雨、湿度などを、地の中に土性などを考え、その土壌の酸性、アルカリ性などを取り上げることが出来る。人の中には住民などが加味されるであろう。
ここに関心を呼ぶのは沙漠と砂丘の、生態間の関連である。上記の天、地、人の各因子が、沙漠と砂丘の中でいかに相関するか。興味をそそる。・・以下略」
(5)日本砂丘学会誌、第40巻第号の巻頭言石原昂先生(初代日本砂丘学会長)の「砂と共息する40ねん」から引用する。
「昭和29年8月(1945年)日本砂丘研究会が設立され、第1回全国大会が鳥取の地で開催されました。砂丘の開発を目ざすあらゆる分野の人びとと、すなわち、砂丘地農家、行政者、試験研究者などによって組織し運営する研究会として、学会組織でなく幅広い学際的な研究会組織とされたのです。大会は全国の主要砂丘県を巡って、現地で開催されて来ました。会誌「砂丘研究」も第38巻第号まで継続して刊行されてきました。・・中略・・
平成4年8月、日本砂丘学会へ移行することによって、「砂丘研究」は第39巻第1号から「日本砂丘学会誌」と改名することになりました。・・中略・・
この第40回大会を節目として、本学会が21世紀に向けて、価値観の多様化をふまえた新たなる理念の基準を求め、さらに一歩踏み出すことを考えて行きたいと思います。」
以上が日本砂丘研究会の設立から、学会への移行した経緯である。これらの、資料から、本学会の特徴が滲み出ている。現場の農業者(農民)を中心にして、研究者、行政、企業が一体となって、砂地農業開発に取り組んだ姿が見えた。
2) わが国の主な砂丘地の分布と面積
日本国土は、周囲を海に囲まれた島国で、その海岸線の総延長は約34,0000kmに達している。その海岸線の至る所に砂丘が形成され、農林省の調査(1953年)で総面積約23万9000haと発表している。
日本の主要な海岸砂丘の分布図を第1図に、そして、地目的面積を第1表に示した。
この調査によると、耕地面積は水田3万2000ha、畑4万5000ha、樹園地4000haであった。
また、林地9万6000ha、不毛地6万2000ha、この時点の砂丘農地は合計で8万1000haであった。
わが国の海岸砂丘地の利用可能面積がこの調査で、示された。
海岸砂地地帯農業振興臨時処置法制定の基礎資料となった。
- わが国の砂丘地農業の変遷
1)海岸砂丘の開拓史
砂地農業の始まりは、定かでないが16世紀頃に始まったとされている。砂丘地の中でも比較的条件のよい地帯から始められたのではないかと推測できる。
第1図からも理解できるように、日本海側の海岸線に、砂丘地が多く見られる。そこで、砂丘地農業の変遷を見るため、鳥取県の砂丘開拓史を第2表に示した。これによると、弓ヶ浜砂丘の開発は16世紀の後半から、18世紀の中期の行われていることが知れると同時に、住民の血の出る努力が報われないで、失敗の悲惨さが伺える。砂丘地が不毛の地であることがこの開拓史からも充分に読みとれる。
2)海岸砂丘地農業の現況
日本の砂丘地の農業利用はおそらく、世界で最も高度に利用され、しかも農業収入面でも大変高いレベルにあると私は考えている。
砂丘地で農業が営まれる条件として、砂の移動を止める砂防林、かんがい施設、圃場の整備状況などの総合的農業の基盤整備が完備することである。この条件が整った砂丘農地では、地域環境や立地条件に似合った作物が導入され多くの作物は高い収益をもたらせている。
そこで、第3表に我が国の主な砂丘県における、砂丘地面積、砂地の利用面積と主要栽培作物について示した。これによると砂丘地面積の多い県(2000ha以上)は千葉、新潟、秋田、静岡、鳥取、山形、茨城県である。この表から砂丘地の栽培作物は野菜類が多く、その他に果樹、タバコが栽培されている。
次に、我が国の砂丘で栽培される、作物別の栽培面積を、第4表に示した。この表から砂丘の産物の特徴が理解できる。即ち、砂の物理・化学特性が生産物に直接現れる作目が多い。根菜類、果菜類、果樹の外にタバコなどの工芸作物などが砂丘の特産作物である。
砂丘農業の特徴は園芸作物を主とした品質重視の集約農業が営まれている。
3)鳥取県砂丘畑における主な作物作付け面積の推移
砂丘地への導入作物の変遷を見るため砂丘農業の先進県である、鳥取県を例にして、その状況を見る。
鳥取県の主要畑作地帯である砂丘地は西部砂丘地帯、中部砂丘地帯、東部砂丘地帯に区分できそれぞれの特徴がある。第5表に鳥取県の砂丘地における主要作物栽培面積の推移を示した。
(1)西部砂丘地帯(淀江町、日吉津村、米子市、境港市)
元禄年間に始まった米川用水は60年をかけ完成した。作物は水稲、綿、甘藷の栽培が安定した。
昭和初期からは白葱の栽培が始められた。昭和30年だいになってレタス、やまといも、など多数の野菜導入が試みられたが定着せず、現在は白葱、葉煙草、人参、甘藷がある。また、一部にイチゴの導入が見られた。
(2)中部砂丘(羽合町、北条町、大栄町)
安政年間に開拓が始まり養蚕、野菜栽培が始められた。明治初期に長芋、明治末期に葡萄、昭和初期にメロン栽培が始まった。灌漑施設の完備とともに鳥取県を代表する砂丘農業地域となる。現在はながいも、らっきょう、白葱、葡萄、葉煙草、浜防風など多くの品目が栽培されるように成っていた。
(3)東部砂丘(岩美町、福部村、鳥取市)
天明年間湖山砂丘で開拓が始められ、作物は綿、甘藷、麦その後に桑(養蚕)の栽培となる。大正初期に苺の栽培が始められその後ジャム加工も行われた。昭和40年代に苺のハウス栽培が始まった。現在は葉煙草、葡萄、甘藷、人参、白葱が栽培される。しかし、都市化が進み砂地農業は衰退してきた。
福部砂丘(東部砂丘農業地帯)らっきょうの栽培が古くからされたが昭和40年代になって圃上整備が進みらっきょうの産地化に取り組み現在は日本で第1位の産地となった。
- おわりに
1)鳥取県砂丘開拓史からも理解できるように、砂丘地農業は住民の血の出る努力が報われない、失敗の悲惨な歴史がある。だから砂丘地不毛地なのである。
2)砂防林の研究から砂丘地農業の研究へと進み、日本砂丘研究会は1954年鳥取で設立された。
日本砂丘研究会の設立時の理念が現在の砂地農業を築いた。即ち、実学を重視した研究会運営がされたことにある。
3)砂地農業は砂の特徴を利用し、園芸作物を主とした集約農業である。
4)施設(ビニールハウス)を利用した施設栽培も増加の傾向にある。(砂栽培)
- 参考資料
1)砂丘研究、第1巻 第1号(1954)
2)日本砂丘学会誌、第40巻 第1号(1993)
3)鳥取県の砂地農業、鳥取県農林水産部編集(1983)
4)鳥取県の砂地農業、鳥取県農林水産部編集(1993)
平成10年7月22日開催「日本学術会議第17期第1回地域農学研究連絡委員会講演会」テキストより転載
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