南バハ・カリフォルニアの生活と自然 -ゲレロネグロの1年-

1993年度プロジェクトリーダー 藤井 嘉儀

  1. ゲレロネグロの町
     プロジェクトリーダーとして1年間の出張を任命され、1993年3月2日鳥取空港を飛び立ちました。前夜のうちに20cm以上も積雪があり、上空まで飛来していた定期便の着陸が懸念されていたのですが、タイムリミット限界で雪煙をあげて着陸、まさに思い出に残る旅立ちとなりました。
     東京国際空港発・バンクーバー経由・メキシコシティ行きJAL便に搭乗、15時間におよぶ空の旅も終わり、メキシコシティには日本出発当日のほぼ出発時間という時差に誤魔化された到着となりました。
     翌々朝メキシコ空港を発ち約2時間北上、エルモシージョ空港から、6人乗りのチャーター機でゲレロネグロに向かいましたが、飛び上がった途端にハッチが開き、荷物が落ちそうになるというハプニングも体験しました。
     メキシコ本土からカリフオルニア湾を挟んだバハ・カリフォルニア半島への道は、陸路ですと北米西海岸と国境を接するティファナまで北上し、バハ・カリフォルニア半島の国道1号線を車で南下するルートしかありません。しかしこれは日数を要する行程で、結局はエルモシージョからチャーター機で海峡を横断するのがもっとも早いコースとなり、この小型機が唯一の足なのです。
     エルモシージョから赤茶けた大地を眼下に、約20分で海峡に差しかかり、大小の島が点在する海峡を越える1時間足らずの空の旅が始まります。海峡を越えておよそ20分、くすんだ荒野の中に道路らしき直線が見え、その線を辿っていくと、よく見なければ分からないような灰色の集落が見え始め、近づくにつれてかなりの町並みだと分かりますが、そこがゲレロネグロです。
     小型機はほとんど民家に突っ込むように着陸しますが、実はこの飛行場は町並に沿った川縁の空き地なのです。
     ゲレロネグロは本格的に開かれてからまだ20年ほどしか経っていない町で、人口はおそらく1万人位でしょうが、子供が数千人は居る若い町です。しかし、メキシコの他の地域と同様に仕事のない人も多く、貧しい暮らしをしている人がたくさんいて、拾ってきた板やトタン、段ボールなどで囲った小屋が数10軒建て混んでいる地区もあります。
     町は大きく2区画に分かれています。町の中心(セントロ)には町内唯一の大型スーパー「バゼナ」があり、その周辺にホテル「マラリモ」などホテルやレストランが数軒と様々な店がひしめいています。建築中らしい煉瓦壁がかなり目に付きますが、大半が中途で放置されているように見えます。しかし、これは明らかに建築進行中で、要するに資金がなくなれば中断し、資金を稼いで工事再開というきわめて気楽な気風です。
     大通りの道路中央は舗装してあるように見えますが、その両側の砂地部分の方が幅広く、どこまでが道路なのかよく分かりません。この道は普段はいいのですが、一雨来るとたちまち泥濘となり大変です。実はこの舗装は塩田でできるニガリを撒いて砂を固めたもので、大相撲の土俵と同じです。
     このセントロを抜けてさらに西に進みますと掘り割りが横切ります。この海水の掘り割りは、三菱の資本が49%入った通称エッサと呼んでいるメキシコ国営塩輸出会社の用水路で、このエッサがプロジェクト職員の雇用や現地資金の面倒を見てくれているのです。
     この用水路端の砂の空地は、町並みと平行に数100m東に延びており、私が着陸したゲレロネグロ大空港です。社会保険病院の緊急用軽飛行機とヘリコプターと、珍しいDC4型の双発機が駐機しています。このDC機は第二次大戦中のもので、沖合の「セドロス島」への定期便です。
     用水路を境にエッサ区域になり、右手に銀行があり、左手には高い塀に囲まれたエッサの事務所、工場などが陣取っています。
     エッサ正門前は野球場が数個もできそうな大広場で、広場に沿ってこの付近では滅多にみられない緑の大木に囲まれた公園があり、その中央には鯨の骨格標本を玄関のモニュメントにしたエッサ図書館があります。
     これより西側一帯がエッサ区域と呼ばれている住宅術で、プロジェクト農場はエッサ地区の西外れにあり、農場の前にエッサ体育館と野球揚があり、プロジェクト専門家専用の4戸のカサが塀に囲まれて建てられています。

    ゲレネグロの自然
     東京都23区の面積はあるという広大な塩田の中の広い道を、時速60マイル位で約50分突っ走っていくと「オチョ・ボンバ」と名付られている塩田に海水を汲み上げているポンプ場があります。そこにはペリカンやカモ、シギ、サギ、そのほか私の知らない鳥達が沢山遊んでおり、バードウォッチングと魚釣りを兼ねて遊べる楽しい場所です。
     専門家がよく家族連れでピクニックに行くところで、アサドーラ(バーベキュー炉)や折りたたみのテーブルなどを積み込んで、いわゆるアウトドア生活を楽しみます。
     私も家族と一緒に魚や鳥達に会いによく訪れ、ヨタヨタと足元まで寄ってくるペリカンと遊んだり、黒鯛に似た「モハラ」とか「カブリージャ」という小型のクエに似た魚釣りを楽しみました。
     この塩田に続く荒野を走る国道1号線を北のアメリカ方向に10km程行きますと、ゲレロネグロの砂丘があります。この砂丘は非常に細かい白砂で、靴の裏底の模様がくっきりと残るほどです。鳥取砂丘の数10倍はありそうで、大きい白いウネリが地平線まで延びています。風に巻き上げられた微砂が、風紋の波に煽られて霧のように舞う様はまさに自然の芸術で、私がまだ知らない「サハラ砂漠」をも連想させ、訪れた人を大感激させてくれます。海岸までは50km以上はあると考えられ、
     この砂丘からさらに北方向に約50q程走り、左に折れてサボテンの荒野の中を30分ほど走ると、トマタルという地名の太平洋海岸に着きますが、この海はキャンプの適地です。
     トマタルという地名の由来は、海の中にトマトが落ちているほどロブスターがいたということからきているそうです。現在は禁漁となっていますが、堂々と密漁している漁師に会いました。
     こちらの人達のキャンプはとても簡単です。
     書記ランベルトに誘われたのですが、テントを持っていないといったら、車で寝れば良いではないかとの一言で同行を決めた次第。
     この海岸は日本の海水浴場にとてもよく似ていて砂浜が遠浅で長く続き、早速、書記ランベルトの4人の息子達は岸辺近くに潜ってサザエやトコブシを採ってくれました。ちょうど引き潮で満潮時より50m以上も岩場が頭を出しており、歩いていても石の間でサザエやムール貝が沢山とれます。
     ゲレロネグロにはチャパリート港という塩積み出し港がありますが、他に旧港(プエルト・ビエッホ)と呼んでいる今は使用していない港もあります。この旧港には古い灯台が建っていて、燈台を取り囲むように、廃虚と化した倉庫だった建物などが放置され、壊れかかった事務所跡に、不法居住しているメキシコ人の家族がおり、数人の子供が遊んでいます。水も電気もなく、魚は幾らでも釣れるでしょうが、買い物は非常に不便でどんな生活をしているのか不思議です。
     燈台の先端に、直径10m程度のコンクリート製円柱バースが3基。その上で家族連れが10数人釣りをしていました。当地での釣り方は、太い糸を使った手釣りです。太い糸にかなり大きい釣針をつけ、錘は古いエンジンのプラグとか、鉄ナットなどの廃物利用。餌は魚の切り身か貝の剥き身で、これは釣り人に頼めば幾らでもくれますから、準備していく必要はありません。
     折りからこのバースでは、サバの切り身を餌にカブリージャを大量に釣っていました。中にスズキに似た形の、美味しいボカデュルセが混じっています。バースの周辺にはサバの大群がひしめいており、幾らでも釣れるのですが、こちらの人達は見向きもしません。
     この燈台の入り江から、遥かゲレロネグロの村方向に広がる潮の引いたラグナ(瀬)を、かなりの数の人達が歩き回っているのが見えます。これは潮が引いた浅瀬の石の間に潜むタコを捕っているということで、1人で大きいバケツに1杯は捕れると云います。
     その方法が変わっていて、塩素を持って行って石の間に振りかけ、タコが苦しがって這い出してくるのを捕まえるそうです。


  2. 砂漠の洪水
     国道1号線を南下しますと300km程で、サンタロサリアに着きます。プロジェクトの数人のカウンターパートの故郷で、もとは銅鉱山の町です。さらにその先にはロレートという町があり、一度行ってみようということになりました。小雨のぱらつき始めた道路は、カリフォルニア湾海岸沿いの崖を走っており、最高のパノラマを展開してくれましたが、南下するに連れて天候が崩れ始め、台風の様相を呈して来ました。
     国道1号線を走っていますと、あちこちに「VADO」という標識板が目につきます。これは道路がアップダウンしていることを注意している標識で、地形にあわせて道路が切り開かれているため、カーブは少ないのですが道路の隆起、下降がとても多いのです。このVADOに入りますと見通しが非常に悪くなるので、大きいVADOでは追い越し禁止となっていますが、このVADOが実は河川の一部である場合が多いのです。
     バハ・カリフォルニア半島の地図上には、あちこちに河川があることになっています。
     エンセナダ以北には、確かに水のある河川があり架橋されていますが、その他の地域は普段は水のない川が多く、道路を横切る橋がまったくないのです。
     叢生の少ない荒野ですから、降雨が来れば一気に雨水が流れて川をつくることになりますが、その川は道路の低い部分すなわちVADOを横切ることになります。
     かって、豊田専門家が北部で集中豪雨に遭い、VADOの洪水で道路を寸断され、ほぼ1週間閉じこめられた事件があったのですが、私どもはまだ大雨にあったことがなく、その実態は知りませんでした。
     ロレートまで数10キロというあたりから雨足が激しくなり、間もなくVADOを洗う濁流に出会いました。10台ほどの車が止まっていて、降りしきる雨の中をみんなで後押ししながら1台宛渡渉させていました。この台風模様の天候では翌日帰れる保証がないわけで、強行突破は諦めようということになり引き返しましたが、雨の少ない当地では滅多に出会えない貴重な経験でした。


  3. 鯨と遊ぶ海
     2月に入るとこのゲレロネグロの町にはアメリカ人が大挙訪れてきます。彼らの大半はキャンピング・カーによる旅行者で、目的は確かに避寒ではありますが、なぜ1、2月かというと、実はこの時期はゲレロネグロの入り江に北極からの珍しいお客さんがやってくるのです。
     それは鯨です。ちょうど繁殖期に入り、太平洋をアメリカ西海岸沿いに、愛の大旅行をして来るのです。ホエール・アドベンチャー達のもっと大きい憧れは実はこのゲレロネグロの入り江なのです。
     ゲレロネグロになぜ大塩田があるかといいますと、この平坦で遠浅の入り江の地形と同時に、ふんだんな太陽による海水の蒸散で、塩分濃度がかなり高まっていることも要素となっております。
     鯨は哺乳類ですから、泳ぎの未熟な仔鯨などは、ときどき溺れることがあります。したがって、普段は親鯨がぴったりと寄り添い、時には背中に乗せて身体を浮かせてやったりしていますが、この入り江の高い塩分濃度は鯨の巨体に浮力をつけるのに好都合なのです。
     この町にくるお客さんの目的は、小舟でのホエール・ウォッチングです。数軒の業者が朝・昼の2回、10人乗り程度の原付の小舟を出しています。サンドイッチ付きで30$。
     湾内のあちこちで盛んに潮を噴いているのですが、鯨は非常に臆病で物音をたてると逃げてしまうということで、エンジンを落としてこっそりと近寄っていきます。目や噴気孔がはっきりと見えるくらいまで接近できますから、初めての人にはまさに感激の連続です。
     エッサの友人に、もっと南の湾に行けば本当に鯨に触れるという話を聞き、約200km南のサン・イグナシオに向かいました。
     サン・イグナシオの浜にはアメリカ人のキャンパーが沢山のテントを張っており、軽飛行機も数機砂浜に停まっていました。
     小舟に乗り込み、わずか15分ほど走ると、そこは鯨の世界。鯨に触ることを許可された境界線があるとかで、中途の鯨を無視して突っ走った理由を納得。
     エンジンを止めるとまもなく、親子連れのクジラがこちらに向かって泳いできます。
     見物人は夢中で手のひらで海面をたたいて呼ぼうとします。すると本当にそれに誘われるように仔鯨らしい小さな方が近寄ってくるのです。ほとんど船舷にぶつかるくらいまで来て、いきなり目の前に大きい鼻面を持ち上げました。
     乗客は、嬌声をあげながら鯨の身体を撫で回しており、まさに夢の世界です。本当に目の前の事実が信じられないことでした。
     仔鯨の肌はとてもなめらかで綺麗ですが、親鯨の皮膚には貝殻や海草がくっ付いており、海の厳しさを感じさせます。親鯨の大きさはわれわれの小舟の2、3倍で、10数mはあるでしょう。たまに舟をひっくり返すこともあるらしいのですが、鯨を目前にしますとそのような恐さがまったく感じられないのは不思議なものです。
     この親仔鯨は私どもの舟の側でかなりの時間遊んでいました。1度、仔鯨が舟底に潜ったとき身体の一部がぶつかってゴンと音がし、一同大笑いしましたが、仔鯨は腹をたてたらしく、浮かびあがっていきなり尻尾でわれわれに水の洗礼。親鯨まで同調して水をぶっかけるのには閉口しましたが、頭の良さには感心しました。
     ここのように大自然の中で野生の鯨に触れる事のできる所は世界中でもあまりないだろうと思います。この経費6人グループで、ガイド料マイクロバス付き120$。

  4. プロジェクトの仲間たち
     ゲレロネグロの産業は塩生産輸出のエッサしかなく、町中がそれを頼って生活しているような感じで、町全体が昔の日本のムラのようなつきあい方をしています。
     誰とでも挨拶し、調子のいいことは言いますが人を騙すようなことは少なく、悪いことをすれば居れなくなりますので、年に1、2回泥棒が入ったというのが大ニュースになるくらいで、貧しい町ですが犯罪はほとんどありません。しかし、飢えている人たちは多く、ゴミ箱を漁った子供が中毒死するというような悲惨な事件も発生します。
     プロジェクトにはメキシコ人が21人働いていますが、そのうち約半数の農夫などは月給約300$、あと半数の技師、書記、秘書などは平均700$という安賃金です。
     この町の人たちは囲いと屋根さえあれば生活できるようで、自宅や借家には床のない家も多く、ベッドや希少な家具を砂の上に直に置いて住んでいます。自宅のない技師達が住んでいる借家は、寝室1間と台所兼居間1間の1戸建てで7千円くらいです。
     プロジェクトの専門家は全部日本人で、技術指導の長期専門家としてこの11月に九州大学に転勤した元乾燥地研究センター助教授の大槻恭一氏(灌漑・気象学)、鹿児島大学に転勤した籾井和朗助教授、同じく乾燥地研究センター修士修了で、現在は香川大学農学部助手の豊田正範氏(作物学)、JICA専門家で現在島根県でブドウ自営農家の有吉誠一氏(生態学)、業務専門家川上哲也氏とリーダーの私の計5家族が住んでいました。また、私の任期中に派遺されて来墨された短期専門家は石川県の大江碩也氏、農学部の山本定博講師、当時は島根県職員であった現農場長の高橋国昭教授、吉田勲教授などがあります。  
     プロジェクトのメキシコ人職員はエッサ雇用の職員という立場で、カウンターパートと呼んでいる技師が10名、書記、女性秘書、用務員が各1名、農夫が9名という大所帯です。
     書紀ランベルトは44歳、世話好きな奥さんはフィデリア。彼の息子は3人、それに妹の息子を養子として育てています。
     18歳で結婚した秘書のモニカは、数年前に旦那と別れ、息子2人を育てている25歳の典型的なラテン系ボニータ。
     用務員のテレスフォードは通称テレ、元は農夫として勤めていましたが用務員に変えて貰い、事務所の掃除や車の管理などをやっている45歳。病弱な奥さんをとても大切にしており、農夫のロベルトは彼の長男です。
     技師は、年齢順にいきますと35歳のイシドロ。グラマーな奥さんと可愛いロサイシという娘と長男がいます。
     恐妻家のオスカルは、娘2人と長男の5人家族で35歳のヨーロッパ系風貌。1年間の日本研修では日本語は覚えず、英語が上達して帰ってきたという男。
     役場に勤める奥さんと別居中のファン・ラリナガは32歳。エッサの評価も高く仕事のできる切れ者です。
     31歳はアルバロとマリオ・アレジャノ及び中途採用のマルコス。
     アルバロは技師の中では最も日本語をよく話しますが、ぽっちゃりした奥さんの尻に敷かれている2人の男の子の父親です。アルコールが過ぎると時々脱線。
     少々仕事を迷っているマリオ・アレジャノには、エッサの医者をやっている相愛のミミーとの間に、素直で可愛い小児麻痺の長男アレックスと、悪戯っ子の長女ターニャがいます。ミミーはなかなかの美人で、ちょっとした診察は無料にしてくれます。日本で研修中の旦那を恋しがって人目も憚らず泣く純情派。
     陽気なマルコスは闘鶏飼育に凝っており、マリア夫人との間に目に入れても痛くない3歳になる1人娘エステファニーがいます。 緑色の瞳を据えて「フォンド、フォンド」と喚きながら一気飲みしてすぐに酔っぱらう太っちょの大男。
     30歳のラウルは1年前に結婚したコリーンとの2人住まい。暑さ寒さに係わらずいつも薄いシャツ1枚で暮らす太めタイプで、エッサに信頼されており、技師の中では珍しく無口な男。(彼は現在本学に留学中)。
     29歳が3名いますが、町内で一番可愛いと噂の高い小学生の娘と、4歳の長男を持つ愛妻家のマリオ・ベンソン。
     元検疫官をやっていたというエドアルドは、奥さんと一粒種を、サンタロサリアの実家に預けて単身赴任。キュウリを「英語でククンブレ(Cucumber)という」と言って、語学アレルギーの私を悩ませる男。
     ついで農夫から技師に昇格したアルマンドは長男が誕生したばかり。顔に不釣り合いな大きな口髭で、いっもニコニコしています。大学中退でやや控えめ。
     農夫の最年長者は、ドン・ペドロと呼ばれている54歳の優しい男です。家族をこよなく愛しプロジェクト随一の歌手。
     もう1人の歌上手はマリアッチのアルバイトをしているというアルカラ。小柄ですが敏捷で、農場に潜入した野ウサギを、果敢に追っかけて手掴みする技の持ち主です。
     無口なのはホセ・ルイス。私の赴任中おそらく数えるほどしか話さなかったのですが、町なかで目が合うとコクンと頭を下げるところはあるいは人見知りか。
     日本に憧れ、専門家に一生懸命に尽くす小柄なフェリペは、太平洋の小島セドロス出身。島に住む母親が作ったというアワビのピクルスは確かに珍品。私がいつも同じシャツを着ているのを気にして、エッサ支給のワークシャツを2枚くれました。
     農夫ファンは書記ランベルトの甥。ちゃらんぽらんな日本語と、陽気なダンスでわれわれを笑わせてくれ、床も張ってない自宅でおとなしい小柄な奥さんと1人息子に加え、なぜか友達という若い男が居候。
     マニュエルは愛称「チョロ」と呼ばれている元漁師。無口ですがさっぱりした気性で、わが家の裏小路を200mほど行った所が彼らの家。砂床の借家で親子4人暮らしています。
     後の3人は独身で、やや太っちょですが走るのが早いホルヘは英語読みではジョージ。恋人を捜している憎めない若者です。
     パイロットに憧れ、何度も専門学校入試をチャレンジしているロベルトは用務員テレの息子。計測データの記帳で時々位取りを間違えることもあり、大槻専門家は彼の操縦する飛行機には絶対乗らないと言っています。
     最年少19歳のアマドは未成年だからとアルコール類はいっさい口にしない正直者。阿弥陀にかぶった帽子がトレードマークです。
     以上9名のムチャーチョ(若い衆)が農作業を支えてくれています。
     さて、最後に可愛いコンチータがいます。
     前年に短期専門家で来た折り、エッサ図書館に臨時で勤めていたのですが、ラテン系らしからぬ控えめで可憐な容姿にすっかり惹かれて、プロジェクトスタッフ全員の憧れになっていました。秘書モニカが半月ほど休暇を取りたいというので、これ幸いと2ヶ月の臨時雇用職員とした次第です。その後、コンチータはゲレロネグロ局のラジオ・アナウンサーに転職し、誕生日に私の好きな歌「コンドルは翔ぶ」を贈ってくれました。芳紀20歳。
     プロジェクトは1997年に終わりましたが、私が帰国してからは既に5年を経ています。しかし私の脳裏には、お話ししたような思い出がいつでも鮮明に蘇ってきます。
     メキシコ合衆国・南バハ・カリフォルニア州・ゲレロネグロ。機会があれば是非とも再訪したい町です。

平成11年12月16日(木)開催「市民公開講座」テキストより転載