乾燥地の農業と土壌
-カザフスタン-
鳥取大学農学部
山本 定博
広大な沙漠の国、カザフスタン
カザフスタン共和国は、ソ連邦の崩壊後、1991年に独立した100以上の民族からなる多民族国家である(人口約1700万人)。ユーラシア大陸の中央部に位置し、北〜北西をロシア、南を中央アジア諸国、東を中国、そして西をカスピ海と接する広大な内陸国で、面積は271万Km
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(日本の約7倍)あるが、国土の大半は乾燥した平原や低地である。国土の北側は年降水量が300o程度あり草原(ステップ)が広がるが、南部は100〜200o程度しかない乾燥地帯で沙漠が広がる。カザフスタンは、かつて、シルクロードの要所として繁栄したが、ソ連邦の時代を経て、今日、20世紀最大規模といわれる自然環境破壊の進行で世界的に注目されている。
不毛の沙漠を農地へ!(旧ソ連邦時代の大規模な農業開発)
このような自然条件下では作物栽培は困難であるため、広大な土地は主に遊牧に利用され、昔から人々はヒツジ、馬、ラクダを育てて暮らしていた。しかし、ソ連邦に併合後、定住化政策により土地利用が一変した。1960年代から中央アジアの5つの共和国を流れアラル海に注ぐシルダリア川、アムダリア川の農富な水を利用し、流域の不毛の沙漠地帯を農業開発する大規模水利事業が推し進められた。自然大改造計画である。乾燥地は降水量が少ないが、日照が十二分にあるため、水があれば非常に高い農業収穫が期待できる。かくして素掘りの運河が沙漠の中に縦横に掘り巡らされ、大規模な灌漑農地が開設され、1970年代には中央アジア全体で600万haを越えるに至った。カザフスタンでは主に水稲が栽培され、ソ連邦の穀倉地帯として発展した。この大規模灌漑事業は、社会主義計画経済の勝利として大々的に宣伝、賞賛された。
灌漑農業の落とし穴(土壌の塩類化による農耕地の荒廃)
水さえ確保すればよいという単純な理屈にはいかなかった。乾燥地での灌漑農業で考慮すべき最重要課題である塩類化への方策が不十分であった。水稲作のための大量の灌漑水は、水田、水路から漏水し周辺の地下水位を高め、地下水に含まれる塩分が、夏季の高温乾燥の条件下、地表面からの激しい蒸発で地表方向に移動する毛管水とともに上昇し、地表面に多量の塩集積をもたらした。ずさんな保守の排水路は機能不十分で、さらに平坦な低地であることから塩が効果的に洗脱されず、土壌の塩類化は急速に進行した。農地放棄→新農地開発→塩類化→放棄という、水を浪費して砂漠化を促進させる最悪のシナリオが展開し始めることになる。大規模灌漑の失策は、塩類化による農地荒廃にとどまらずアラル海周辺の環境も大きく変えてしまうことになった。
大規模灌漑農業がアラル海とその周辺地域にもたらしたもの
アラル海は塩水の内陸閉鎖湖であり、シルダリア川、アムダリア川の流入水を水源とする。大規模灌漑も両河川を水源としており、大量の水が農地へと取られた。その結果、アラル海への流入水は激減することになり、1960年まで68000q
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あった貯水面積(世界第4位)は、現在1/2の面積にまで減少している。このままでは21世紀前半には消滅すると予測されている。アラル海は塩分濃度が著しく上昇し、湖の生態系の活動はほぼ停止した。そして、200万haに及ぶ周辺の樹木・灌木は姿を消し、生物種も激減するとともに、周辺の気温は冬には5〜6℃低下し、夏は2〜3℃上昇し、より過酷な気候環境へと変化した。さらに、砂嵐が多発し、周辺地域へ塩分を含む微粒子を多量に飛散させ、ヒトの呼吸器へも悪影響を及ぼしている。また、灌漑農業の進展に伴い住民の重要な水源である地下水も塩で汚染され、腎臓障害、感染症をはじめ様々な健康障害が発生している。メソポタミア文明崩壊の再現である。
シルダリア川下流域の集団農場の現状
1996、1997年、アラル海から約350q東のシルダリア川下流域に位置するクズリオルダ近郊の集団農場を調査する機会を得た。この農場はシルダリア川の古デルタ上にあり、約20年前に整備が開始された。灌漑農地は数カ所のブロックに分かれており、灌漑総面積は1900haに及ぶ。カザフスタンの灌漑農業の特徴は水稲作であり、本農場では牧草と休閑を取り入れた八圃式の輪作体系がとられている。クズリオルダの年平均降水量は151oで、夏季は高温で乾燥し、降水(降雪)は冬季に集中する。この複雑な作付け体系は地力回復とともに、降水のない夏季に、水田から地中へ浸透した水を周辺畑地へ地下から供給(地下灌漑)するという節水面での効果が期待されている。また、水稲作は畑作時に集積した塩類を洗脱できる。
しかし、事は思い通りに運ばなかった。地下灌漑を期待した高地下水位の環境は、水田周辺の畑地、休閑地の塩類化を急速に進めることになった。灌漑開始後、数年で塩類化が顕在化し始め、現在、全灌漑農地の約30%にあたる600haの耕作地が放棄されている。放棄農地は地表面に1〜2pの厚さで塩が噴き出しており、土壌中にも塩の結晶が析出している。凄まじい限りである。まるで塩田である。耕作地も作物生育の限界レベルの塩が集積しており(ECe=10〜20ds/m)、収量は非常に低い。灌漑農地も瀕死の状態である。詳細は写真をご覧頂きたい。
今、カザフスタンに自力で自国の農業を立て直すだけの力があるのだろうか?ソ連邦時代、構成共和国の役割分担の上に成立してきた一蓮托生的な統制経済体制が崩壊した結果、カザフスタンは農業資材、大型農業機械の供給が途絶え、農産物の流通ルートも機能しなくなり、経済的困難さが一層深刻化している。現在、わずかな肥料、頻繁に故障する老朽化した農業機械でかろうじて農業生産活動が続けられている。土壌の塩類化の防止と改良のためには灌漑排水路の整備が必須であるが、生産すらおぼつかず破綻寸前の経営状況ではその余裕などどこにあろうか。この地域の砂漠化問題はソ連邦解体に伴う社会・経済的諸問題と絡み合い、複雑化し難解化している。抜本的には、技術的対策以前の感を持たざるをえない。
おわりに
乾燥地の生態系はなんと脆弱なことか。メソポタミア文明の崩壊など、歴史の中で人類は既に学んでいたはずであるが、同様の過ちをまた繰り返そうとしている。アラル海周辺で進行する大規模な砂漠化は、乾燥地との関わり方、特に持続的な灌漑農業のありかたを今一度考えろという警笛のように思われる。
平成10年11月9日(月)開催「市民公開講座」テキストより転載