乾燥地の潅漑農業-パキスタンの事例-

鳥取大学乾燥地研究センター 大槻 恭一

  1. はじめに
     乾操地の潅漑農業といっても非常に多様である。本報では、パキスタンを事例に、乾燥地における大規模地表潅漑事業の問題点について概観する。

  2. パキスタンの農業
     農業はパキスタンの基幹産業である。農業生産はGDPの約26%。農業従事者は全就業人口の約54%、農地面積は国土の約26%を占めている。特に潅漑農業は重要で、世界有数の潅漑面積(約1620万ha)、潅漑率(約77%)を誇っている。しかし、単位面積当たりの農業生産量は世界平均の70%程度に留まっており、不適切な潅漑排水に起因する過湿被害・塩害によって深刻な国土荒廃に悩まされている。人口増加率は3%(1993年)と高く、将来、食糧不足が大きな課題となることが推測されている。

  3. 過湿被害・塩害の発生
     パキスタンの潅漑農業の歴史は古いが、従来、農業は主として自然の水循環の中で営まれていた。しかし、19世紀中期にイギリス領に編入され インダス河流域に世界有数の大規模潅漑水路網が形成されてから、パキスタンの水循環は人為的に大きく改変された。とりわけ顕著なのが地下水位の上昇で、各地で過湿被害が発生した。インダス河流域の地下水位は、100年前には約40mであったが、1977-79年に総面積の約42%の土地で地下水位は3mにまで上昇した。また、地下水位の上昇に伴って農地の塩類化が蔓延し、1977-79年には農地の約25%において表面塩害が検出された。

  4. 過湿被害・塩害対策
    (1)過湿被害・塩害対策の推移
    1.
    SCARP(Salinity Control and Reclamation Project)1959年開始。0.028〜0.14m3/sの公共揚水井戸で、塩分濃度の低い浅層地下水を揚水し、潅漑用水の補助水源とするとともに、地下水位を下げる事業。
    2.
    OFWM(On Farm Water Management)1967年開始。農民水利組織を結成し、農民参加に基づいて末端水路の改修・維持管理を行う事業。
    3.
    Drainage Project 暗渠・明渠排水を総合的に整備し、地下水位を下げ、農地の過湿被害を解消することを目的とし,近年重点的に推進されている事業。

    (2)第4排水事業地区の事例
     第4排水事業地区はインダス河中流のパンジャブ州ファイサラバード県に位置する。ファイサラバード県は、年降水量約350o/yの夏雨型の乾燥地で、100年前までは遊牧民が季節的に放牧に訪れる荒涼とした沙漠地であった。しかし、1900年初頭に潅漑水路綱が張り巡らされ、通年潅漑が可能となってから、急速に農業開発が進み、現在では大半の土地が耕地で占められている(第4排水事業地区では83.5%)。
     しかし、地下水位の上昇が顕著で、過湿被害・塩害が顕在化してきた。中でも第4排水事業地区の過湿被害・塩害は深刻で、1980年前半には、77%の土地の地下水位が0〜1.5m、40%の土地が塩害を受けていた。これに対してSCARPが導入されたが十分な効果を上げられず1983年からOFWMを含む第4排水事業が開始された。その結果、地区の70〜80%の地下水位を1.5〜3.0mにまで低下させることに成功した。ただし、地区の排水は河川に垂れ流しされており、対象地区の環境を改善したとしても、水質の悪化した排水を下流地域に押しつける結果となっている。
     過湿被害・塩害が顕著なのは、主として排水路沿いである。相対的に低位に位置する排水路沿いは、用水路建設当時には水が得やすい農業適地として評価されていた。しかし、用水路網が建設されてから、排水路沿いは、地下水位の上昇に伴い過湿被害・塩害に悩まされ上流側が優先的に取水するために用水が届かず深刻な水不足に悩まされている。すなわち、排水路沿いは過湿被害・塩害・水不足の三重苦に悩まされている。排水事業によって過湿被害を免れた土地でも、リーチングするための用水が確保できず、塩害は依然として残っているところが多い。
     全体的にみても水不足は深刻である。計画用水路流量は耕作指定地に対して約1.8mm/dしかない。用水路建設当時は、作付け率(換算用水量)は夏季20%(9o/d)。冬季30%(6o/d)に規制されていた。しかし、用水路建設後すぐに規制は緩和され、現在 作付け率(換算用水量)は夏季59%(3mm/d)、冬季81%(2o/d)である。実際には、用水の搬送・配水・適用の段階で60%程度の損失があるため、水不足はさらに深刻である。

  5. おわりに
     乾燥地の大規模地表潅漑事業の場合、排水事業が後手に回り、過湿被害・塩害に悩まされている事例が多い。排水事業も対処療法的な対策にとどまっており、持続的な処置が取られているとは言い難い。これに対し、近年先進国では点滴潅漑を導入し、排水事業を必要としない対策が取られつつある。ただし、点滴潅漑施設の導入には高額な投資が必要で、維持管理には高度な技術を要するため、現段階で発展途上国へ導入することは難しい。1900年代に残された大規模地表潅漑施設をどのように取り扱っていくべきか、21世紀に課せられた課題は大きい。

平成10年11月9日(月)開催「市民公開講座」テキストより転載