日 本 砂 丘 学 会 の 歴 史


2000年発行「世紀を拓く砂丘研究―砂丘から世界の沙漠へ―」第1節,第2節より


「日本砂丘学会」の誕生と歩み:長 智男
「日本砂丘学会」の創設:石原 昂


「日本砂丘学会」の誕生と歩み:長 智男

 この度,日本砂丘学会は40周年を迎えた。前身の日本砂丘研究会から引き継がれて発展し,全国大会も第41回が開催され,会誌も第41巻を数えるに至ったことは,誠に御目出度いことである。日本砂丘研究会の創設期の頃の状況について執筆することは,誠に光栄であるが,研究会の設立に至るには,私個人のことも含め,当時の鳥取砂丘における研究事情の背景を切り離しては語ることができないので,このことをお許しいただきたい。

 私が最初に鳥取に着任した昭和22年の頃,軍の演習地であった鳥取砂丘は,大蔵省が管理し,その一部を鳥取農林専門学校が使用していて,廠舎が一棟残されていた。この廠舎を研究棟とし,この周辺から試験地が開かれていった。地下水の湧水があったので,この水を灌漑に利用することができたからである。この頃の試験地の周辺は砂防林もなかったので,飛砂によって,文字通り不毛の土地であった。沙漠での戦争の訓練をしていた土地がやがて,人類の平和に貢献する沙漠の緑化の研究に利用されようとする暁であったといえよう。

 昭和24年に新制大学ができて,鳥取農林専門学校も鳥取大学農学部になった。初代の学長に東京大学から佐々木喬先生が来られ,いろいろと研究の方向について御教示いただいた。新制大学は駅弁大学といわれながらも,何か特色を打ち出そうと模索していた。当時,林学科には原勝先生がおられ,昭和の初期から,湖山の砂丘に試験地をつくり,永年にわたる砂丘造林の研究に実績をあげられていた。安定した砂防林があってこそ,その内部の砂丘地は農業生産地として利用できるのであるから,原先生は,砂丘利用研究の先駆者であった。佐々木先生の提唱によって,砂丘地の農業的利用に関する研究グループをつくって,研究を開始しようということになり,若輩の私も進んでこれに参加した。原勝先生を代表者とし,鳥居菅生,上田博愛,細田克己,東郷成蔵,遠山正瑛,池田茂,長智男のメンバーであった。鳥取砂丘の廠舎の周辺で研究が始められ,鳥取大学砂丘試験地と呼んだ。これが,昭和33年に砂丘利用研究施設となった。私は遠山正瑛先生と一緒に全国の砂丘地を調査し,砂丘利用研究の目標について討議した。

 当時,砂丘地では,地下水面の高い凹地に野菜,スイカ,ブドウなどが栽培されていたが,砂丘砂の有効水分量が小さいために,頻繁な灌水が必要で,灌水は人力桶灌漑方式に頼っていた。地下水面の比較的高い内方砂丘の中に野井戸を掘り,石段を下りて地下水を一斗缶に汲み,天秤を用いて肩でかついで,うね間を歩きながら灌水した。夏季には,毎日,10a当たり7〜10m3の水量を運んでいた。この苛酷な作業は「嫁殺し」と呼ばれていたのである。このような方法では,40a以上の面積を栽培することはできなかった。これらの調査を通じて,砂丘地農業にとっては,組織的な灌漑がいかに重要であるかを認識した。基礎諸元である灌漑の必要水量と間断日数を明らかにするとともに,砂丘地に適した灌漑方式を確立することが必要であった。

 当時,農林省では,砂丘畑に普通土を客土して浸入速度を減少させ,うね間灌漑方式を適用したい考えであった。客土畑で,うね間への流入水量,水の流下距離と時間との関係などを調査した結果,この方式の適用は困難と判定した。このように地表灌漑方式が適用できなくなると散水法ということになるが,最初は当時の状況からしてホース灌漑方式を検討した。この方式では流量が意外に小さく,圃場当たりの水深に換算するとわずかで,1回の必要水量の供給には時間と労力がかかりすぎた。昭和26年には,砂丘の農業的利用の研究に対し,朝日科学奨励金が与えられた。そこで,次に考えたのはノズルライン灌漑方式であった。当時は金属品の値段が生活物資と比較して高かったので,農業に金物を使うのかと言われたものである。定置式ノズルライン方式は,灌漑実験にはよく使用されたが,事業化には10a当たりのコストが高くついて,実用には至らなかった。

 昭和28年,文部省の試験研究費が研究グループに与えられ,鳥居菅生先生と一緒に,回転式スプリンクラー方式の研究を取り上げた。当時,芝生の散水に使用されていたものを,アルミ製の移動散水管と組み合わせることによって,わが国の畑地区画へ経済的な灌漑システムとして導入することを考えた。砂丘地では,特に圃場面への均等散水性の確保と,スプリンクラーの経済的配置が重要であった。この研究の結果,私たちは井戸水源を含めたコストの試算を行い,実用化の目途をつけることができた。北条砂丘・湖山砂丘の農家の人たちが,待ちかねたように,この方式による灌漑事業を要請し出した。このようにして最初の散水方式による県営事業が陽の目をみることになった。今日のわが国の畑地灌漑のほとんどは散水法であるが,これは鳥取砂丘から始まったものである。

 砂丘に関する研究の中心を鳥取に置こうとする気持ちは研究グループの中で次第に育っていった。私は原先生,遠山先生らと相談した結果,砂丘に関する学会を設立しようということになった。特に佐々木先生からは全日本的な組織をつくるようにいわれていたからである。昭和28年の夏,過労で倒れた病身をおして,私は連日,図書館の書庫に入り,ほこりにまみれた雑誌をひもとき,砂丘に関する研究がどこでどんな課題で行われているかを探した。これらの資料から,砂丘に関する研究者をリストアップし,全国に呼びかけて発起人会をつくり,昭和29年9月22日,日本砂丘研究会の第1回大会を鳥取で開くことができた。初代の会長に原勝先生が就任された。同年12月には,砂丘研究第1巻1号を出版した。

 この会の名称を決めるに当たって,全日本的視野に立って会を発展させようということで「日本」の名を冠したのであった。末勝海先生からも,日本の名にふさわしい活動をするようにとの激励をいただいた。設立に当たっては,山形大学,静岡大学,島根大学,農林省,石川県農業試験場,山形県農業試験場,静岡県農業試験場,鳥取県農業試験場,島根県農業試験場などの方々から積極的な御協力があった。医学会には癌学会のような学会があって,臨床から基礎医学にわたる広い分野から癌を対象に研究者が入会し,学際的な研究を展開している。私たちの日本砂丘研究会は砂丘というものを対象にして,各専門分野から集まって学際的な研究をしようと考えたのであった。

 第1回大会には,17題の研究報告と3題の現地報告,砂丘における灌漑方法についてのシンポジウムがあった。座長は九州大学の田町正誉先生で,時代に即したテーマであったから会場は活発な議論で沸いた。講演要旨は各自グリ版刷りのものを持ち寄ったが,貴重な資料であった。現地報告はこの研究会の特徴の一つで,全国の地方の砂丘農業の実情を報告してもらったので,会の出席者は居ながらにして各地の実情を知ることができたのである。

 大会が県の持ち回りで各地で開催されるようになった機会に,その県の砂丘地農業の現況を一冊の印刷物にまとめて,大会の出席者に配られるようになった。これも大変貴重な資料であった。翌9月23日には,鳥取砂丘,鳥取大学砂丘試験地,湖山砂丘,北条砂丘等を見学した。

 第2回大会は石川県の御尽力で金沢において,昭和30年9月20日に開催された。研究報告14題,現地報告3題,特別講演は新潟大学の伊藤武夫先生の海岸砂防に関する基礎的問題についてであった。シンポジウムは砂丘地における営農事例とその改善点という題で,秋田県,石川県,鳥取県,島根県から発表があり,座長は山形大学の石川武彦先生であった。翌21日には,当時,米軍の試射場であった内灘,河北台砂丘などを見学し,石川県農業試験場宇ノ気試験地で現地討議を行った。宇ノ気試験地は,当時,北陸における砂丘地利用試験研究の先進地であって,後に石川県砂丘農業試験場になった。

 第3回大会は山形県の御尽力で,山形県西田川郡大山町善宝寺で昭和31年9月8日行われた。地元関係者を含めて200名が集まった。研究報告21題,特別講演は九州大学名誉教授の田町正誉先生の海岸砂地における井戸の湧水量についてであった。シンポジウムは,砂丘地におけるタバコ栽培についてで,座長は遠山正瑛先生であった。翌9日には,山形県農業試験場砂丘分場,袖補地区畑灌計画地,浜中砂防林,赤川開拓地,西荒瀬土地改良区等を見学し,酒田の庄内農協会館で現地討議を行っている。今日の庄内砂丘はメロンの一大産地となり,当時の未開発状況を想像することは難しい。

 大会はこのように毎年各県の持ち回りで,40年続いた。開催県の方々の御努力の御陰であり,感謝に絶えない。

 私は昭和42年より2度目の鳥取に勤務し,念願の乾燥地の灌漑の研究を手がけるようになった。原先生といつかは沙漠の緑化の研究を手がけたいと話していた頃から25年が経っていた。在外研究,海外学術調査など,後の砂丘利用研究施設の国際活動に役に立つことになる。

 昭和48年から51年まで,第4代の日本砂丘研究会長をお引き受けした。このときの問題として私は次の4点をあげた。@研究レベルの向上と実際問題に役立つ情報の交換,A国内砂丘の開発・利用・保全に対する地域への貢献,B国際的交流の発展,C財政基盤の確立であった。

 昭和50年から,会則第2条に「本会は砂丘および乾燥地に関する研究の進歩発達ならびにその実際への普及を図るを目的とする」とうたうようになった。

 本学会が,乾燥地の研究まで発展し,世界の人類に貢献されることを念願してやまない次第である。



「日本砂丘学会」の創設:石原 昂

1.日本砂丘研究会のこれまでの歩み

 昭和29年8月21日,「日本砂丘研究会」は鳥取の地で誕生した。初代会長に原勝博士を迎え,会員174名の入会申し込みがあった。これは鳥取大学の砂丘研究者が,本格的に砂丘の開発研究に着手した昭和21年から数えて8年後のことであった。準備の当時も日本砂丘学会と名づけては……,との案もあったようだが,広く砂丘地農家,行政者,試験研究者を集めて,理論と実践とを推進していこうとの目標からして,学会組織よりもむしろ研究会組織とすることになったと,その経緯を第三代会長,遠山正瑛博士は記されている。

 すなわち,砂丘の開発をめざすあらゆる分野の人びとによって組織し運営する研究会として,縦割り専門の学会組織ではなく,幅広い横並びの学際的な研究会組織とされたのである。大会は全国の主要砂丘県をめぐって,現地で催されてきた。会誌「砂丘研究」も第38巻まで継続して刊行されてきた。創設後の研究会の歩みは,草創期,建設期,そして成熟期へと,実に38年の長い道程を変遷してきた。それは砂丘および乾燥地に関する研究の進展とそれらの実際への普及を図ることを目的とした活動だったのである。

2.近年の乾燥地研究と関連学会の発足

 ここ10年前から地球環境の問題が大きく取り上げられているが,その一環として沙漠化の防止・緑化の保全などの課題に国民の関心が高まってきている。このような世論を反映する形で,平成元年5月には「日本緑化工学会」が地球の緑の再生・創出をめざして誕生した。また,平成2年5月には「日本沙漠学会」が創設された。これは従来の学会とは違って沙漠に関連する専門分野がきわめて広いので,科学技術の分野ばかりでなく,沙漠の人文・社会に関する分野をも含む広い層で組織されている。

 このような時代の流れの中で,昭和33年3月に設立された鳥取大学農学部附属砂丘利用研究施設も,世界の乾燥地の開発と農業利用の研究をめざして,平成2年4月から全国共同利用施設に格上げされて「鳥取大学乾燥地研究センター」として新たに発足することになったのである。

3.日本砂丘研究会の問題点とその整備

 会長を受けた昭和63年8月以来,私は運営に関する重点項目として,@会員の増強,A会誌「砂丘研究」の内容の充実,を提唱しながら努力を重ねてきた。しかし,それでもなお会員数は減少していった。会誌の論文原稿の方は多少増えてきたが,まだ十分とはいえなかった。

 そこで私としては,次の理由を基調に研究会を学会へ移行することを提案したいと決意するに至ったのである。

@大学,農水省,地域農試,その他の官庁,企業体などでの,研究職員の研究業績が低く評価されがちなこと。
A他の類似学会と乾燥地に関する研究を競合していく場合に,研究会では立場が弱いこと。
B公共企業体や団体からの賛助を受けようとする場合でも,社会的信用が薄いこと。
C日本学術会議会員の推薦権など,日本学術会議での位置づけ,評価が研究会では弱いこと。
D文部省の科学研究費,農水省やその他の官庁の依託試験費などの審査の場合,信用度が弱いこと。
E国際化の時代に対応するに当たって,研究会では国際的評価が弱いこと。
F以上の諸理由から,会員の増強,特に若手研究職員の新たな入会に対する期待がもてないこと。

 しかし,他方においては学会に移行した場合の弊害も次のように考えられたのである。

@多少堅苦しくなり発表の自由さ,自由度が下がるのではなかろうか。特に現場での体験を発表する場合に制約ができるのではなかろうか。
A多くの分野の人びとが協力し,実用化に努力するという学際的,総合的見地が崩れ,専門が固定化する恐れはないだろうか。

 だがここで考えたことは,研究会の方が発表の自由度は高いかもしれないが,学会になったからといって直ちにいろいろな点が急に変わるとは限らない。学会になっても,設立当初の理念はできるだけ守り継続するようにしたいと考えた。要は形とともに実質であるという認識であった。現在ののびのびした研究会の雰囲気を守りながら,現場からの問題提起に応えることができるならば,学会に移行することによってさらに本会の発展を期待することができるであろうと考えたのであった。

4.学会移行案についての審議経過

 研究会を学会に移行したら・・・,という考えは一部会員の中ではすでに2年前の平成元年頃から話題にのぼっており,正式には同年11月の幹事会で話題提供された。そこで平成2年に入り,幹事会,評議員会の議題として取り上げ,関係者に意見交換をしてもらった。それらの議論の中で多少の異論もあったが,大方の意見は時宜をえた方策であり,むしろ遅すぎた感さえある・・・,との賛同を得たのであった。

 会長として私はこれらの意向をくみ新たな決意を固めた。平成3年に入ってさらに幹事会の同意を再確認し,念には念を入れて在鳥役員会を開いて話し合ってもらい了承を得た。そして,平成3年8月5日の第38回全国大会(静岡大会)評議員会で承認を得た後,翌6日の総会で決定してもらったのであった。

5.日本砂丘学会への期待

 これまでわが日本砂丘研究会では,砂丘地の地質と地理,砂丘地の生物,砂防林をはじめとする砂丘地をめぐる環境の保全と管理,砂丘地土壌の特性の解明,砂丘地における畑地灌漑,適作物の導入と栽培技術,作業技術と経営管理,さらに乾燥地の農業など,広い範囲にわたって多大な成果をあげてきた。このような成果は,会誌である「砂丘研究」に業績として足跡を残してきている。そしてこれからは,さらにこのような業績を踏まえて砂丘に関する研究と事業の進展はもとより,さらに乾燥地の環境保全,乾燥地農業への貢献をもめざしていきたいと考えた。

 「日本砂丘学会」への移行によって,「砂丘研究」は第39巻第1号から「日本砂丘学会誌」と改名することになった。論文は学会誌にふさわしくレベルアップしていくであろう。だが他方,技術報告,資料など,現地からの報告記事については従来通り幅広く掲載していく予定であった。したがって,編集委員会の組織もより充実した。それによって掲載論文の評価も向上していくので,会員の皆さんの積極的な投稿をお願いすることにした。特に若い研究者の新たな入会を期待した。入会してわが国における砂丘地農業および乾燥地震葉の発展に,大いに活力を発揮してもらいたいものと願った。

 一方では,従来からの現会員の砂丘地農家,行政者,試験研究者の方々に,そのまま引き続いてこれまでのとおり現場での大会(研究発表・シンポジウム・現地見学など)に参加してもらい,大いに活用していただけるものと確信し期待した。

6.日本砂丘学会の発足

 去る平成3年8月の静岡大会で,学会移行と同時に再び会長に選出されたので,私も精一杯頑張りたいと決意を新たにした。これまでと同様に,会員の増強と学会誌の充実を重点項目としていくことを総会で申し上げた。そしてこの機会に,関連する諸分野で仕事をしておられる方々に本学会に加入していただき,さらに学会の発展を期待したいと考えた。国内の研究者,技術者,農業者の皆さんの連帯による日本農業の発展と環境保全,そしてさらには世界の乾燥地諸国の人びととの連帯を通して,人類の平和と繁栄に貢献できることを望んだからである。

 おかげでその後会員数が増え,現在350名に達している。砂丘あるいは乾燥地に関心をお持ちの方々のご入会を心から歓迎したい。そしてまた,現会員の方々にはこれまで以上のご協力をお願いしたいと考えている。

 最後に中国の古典,荘子のなかに,「来世は待つべからず,在世は追うべからず」とある。未来をあてにして今の苦しみをまぎらわすこともできないし,過去の思い出にひたって自らを慰めることもできない。与えられた現実を生きること以外に人生はないと諭しているのである。これは,私の学会創設当時の心境であったとご理解いただければ幸いである。